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見たことのない世界が垣間見える扉

知識を得るというのは、すでに知っていることに名前を与えるという行為ではないかと思う。全く違う次元として、見たことのない景色を見に行くような知のありかたがある。

誰も行ったことのない場所に辿り着くような知のあり方。それは夢見る者達が「もしかしたら帰ってこれないかもしれない」という恐怖を伴うものらしい。

二階堂奥歯が夢見て、生きているうちに垣間見たかもしれないがそれを生きて保つことができなかった世界。

 

私は、この誰も見たことのない世界にたどり着いた者がなぜ帰ってこられなくなるのかということを考え続けていた。

 

結論からいうと、私は誰も見たことのない世界というのは、きっと全てのことを「知らない」世界だからだと思うんです。

 

全てを知らない世界ってどういうことでしょうか。私のイメージをうまく書けるかな。

そこでは、私たちはその世界を名付けることができない。

例えば私たちは目の前のグラスがグラスであるということを知っています。透明で、ガラスでできていて、ちょっと冷たくて、持つと心地の良い重量感が感じられるもの。私たちは地面が地面であるということや私たちの周りを満たしているのが空気であることとか、私が人間で名前を持った独自の個体だということなどを「知って」います。

私たちは、私たちの生きている世界のことを知っているから正気でいられる。

もし、これらの知が足元から崩れてしまったら、果たしてどうなるのでしょうか。

渡辺哲夫の二十世紀精神病理学史という本の中で引用されたアルチュール・ランボオの手紙にはこんなことが書かれています。

「‥千里眼でなければならぬ、千里眼にならなければならぬ、と僕は言うのだ。(中略)恋愛や苦悩や狂気のいっさいの形式、つまり一切の毒物を、自分を探って自分の裡で汲み尽くし、ただそれらの精髄だけを保存するのだ。(中略)彼は未知のものに達する。そして、狂って、遂には自分の見るものを理解することが出来なくなろうとも、彼はまさしく見たものは見たのである。」

 

渡辺哲夫が言うには、千里眼を阻害しているのは、普遍的知性であり、言葉であり、歴史であるといいます。この歴史というのは、地面が地面であり、空気が空気であるその前提としての人類が積み重ねてきた膨大な定義の歴史のことを言っているのだと私は理解しています。

普遍適知性、言葉、歴史を脱ぎ捨てる。そして感覚の乱用ができるまでに感性を育て、知性を世界を語るために育てた人間しか到達しえない千里眼の世界が、「誰もみたことのない世界」というものなのではないでしょうか。

 

その世界は、概念の上でしか存在できません。ヴィトゲンシュタインの文章を読んだ時に、私は概念でしかこの世に存在できないそういう世界が立ち上がってきてとても感動しました。

しかし、そこに足を踏み入れることは果たしてできるのでしょうか。そこは、「見て」そして「狂って」しまうような世界。

 

私がアイデンティティの危機を迎える時期、この扉は開いていたような気がします。

私はそこに行けなかった。

行ったらやっぱり生きて帰れないような気がした。私にとってそれは概念ではなく確かに存在する現実と地続きだと感じていました。

 

アイデンティティの危機を乗り越え、自分が自分になる時、その世界は概念として形あるものに結実するのかもしれません。