木地雅映子「氷の海のガレオン」と私

 

数年前に出会って以来、頭の片隅にずっとある本が「氷の海のガレオン」である。

早熟ゆえに学校で不適応を起こして、孤独と集団の中で揺れ動くある女の子の話。

 

ちょっと自分的には濃厚すぎてなかなか踏み入れなかったのだけど、引用しながら何がそこまで私を引きつけるのか自分のために紐解いてみたいと思います。

流れるままに。

 

さて、杉子(主人公)の問題とは何なのか。

 わたしはわたしの言葉を、文学とパパとママの言葉で培ってきた。考えごとも想像も、すべてはその言葉たちで組み立てられる。それが学校では全く通用しないということに気づいたのは三年生のときだった。

主人公の杉子の言葉は大人びていて独特だが、それが全く同年代の子どもたちに伝わらない。そして杉子は同じ年頃の子どもに対して心を閉ざす。

どんな独特さか、ということはママの昔の話で想像していただければと思う。

 「あんたのママはね、昔っから『彼はいるの?』とか、『恋人いるの?』とか聞かれても、絶対にうんって言わなかった。軽蔑したような目で相手を見て、ふんっと鼻をならして、『なにそれ?』って言うのね。『あなたの言うその”彼”という言葉はいったいどういう存在を表しているわけ?』なんて言っちゃうの。(中略)

 ある日突然狂ったようになって、『アキ、あたしの言うこと解る?あたし、日本の言葉を話しているんじゃないの?どうしてだれかの話した言葉のいちいちを、これはあたしの言葉に直すとこういう意味だな、ああこれはこういうことかなって、頭の中で直さなきゃいけないの?』って泣き出したことがあってね。

 言葉のありようが、他と違うことって社会生活において結構なネックだ。

私は小学生の時に国語辞典を愛読していた、今思い返せば変な子で、まどろっこしい言い回しを好み、若干他の子どもと言葉が通じていなかった。変な子だとおもわれたくなくて、一生懸命普通の喋り方、普通の”ノリ”に合わせるよう努力した。

でも、言葉って、自分の拠り所なんですよね。

例えば、りんごが赤いと思っているひとに、りんごの青さを伝えるのはほんとうに骨が折れる。

でも、私には青く見えている部分もある。でも、それが伝わらない。

わたしの青いりんごが、この世界の中でなかったことになってしまう。

私の感じているものが伝わらないことによって、なかったものになること、それって本当に身を切られる辛さだ。どんなに言葉を尽くしても、りんごに青さを感じることがない人には、一ミリたりとも伝わらず、「普通じゃない」と言って逆に変人扱いをされる。

世の中は、感じているものを感じないふりをしたほうが、きっと上手くいくんだろうなと思った。押し殺した。笑顔で乗り切った。

「”普通”、りんごは赤です」

という前提で進んでいくのが、学校という社会なんだと思った。

 

同じ形をした人間なのに、私だけ宇宙人みたいだ。

ほんとうは今、宇宙船に乗っていて、友達と話している風景が夢の中で、宇宙人によって操作されて見せられている映像なんじゃないかと結構本気で思っていた。

だって、現実が現実だって誰が証明できる?

二階堂奥歯も「自分の見た物が、死んだ後に宇宙人に送られるから沢山見ておかなければ」という考えを小さい時に抱いていたと書いていた。言語で小さい時に苦労をすると、社会の中で宇宙人のような自分と、心理的な逃避が重なってそんな考えに至るのだろうか。)

 

私は中学生くらいまで、絶対に子供を産まないと決心していた。

私のような目に遭うのは辛すぎるし、こうやってしてまで、自分ではない人生を生きていくことに正直うんざりもしていた。

杉子と仲のいい音楽教師が妊娠した際の会話でママが言ったこんな記述がある。

 わたし、周防がおなかにきたとき、ひどい状態でした。

 なにを教えたらいいか、わからない。わたしが育てた人間なんて、社会からどれだけ疎外されるだろう。言葉も通じない。わたしが神さまについて、思った通りを子供に語り、子供がその通りをだれかに語る。それだけで、もうその子は気違いあつかいされるんじゃないかって。

(中略)

 でも、まぁ、言ってしまえば気が変わったのね、峠を越したというか、強くなったというか。

 わたしはほんとうのことを隠さない。

 それに耐えられる魂だけ、わたしのおなかにおいで。

 じかんのすごし方について、楽土について、きっと何もかも、伝えてしまうからね、覚悟してねって。

 なまっちょろい子供なんか要らない。そんなのは厚化粧した女の腹にでも宿るがいいってね。

 最後のパンチがすごいんだけど、 自分の遺伝子が後に残っていくってことはある意味で、軽々と、気が変わったりしないと考えていられないくらいシビアな話で、子どもを大切に思えば思う程、産むこと自体が拷問なんじゃないかと思う時期があったりする。

(もちろんそうじゃない人生もあるんだってことは想像できる)

ざっくり言ってしまえば、この氷の海のガレオンの作者は、発達障害について書かれているだろうという作品を色々と書いている人だし、私も当事者だしで、そのへんの”普通とは違う特徴”の遺伝について不安だったのではないかと今は思うのだけど。

 

言葉ではなかなか言い表せない社会との隔絶を抱えている人って、今の世の中には沢山いるんだと思う。

私がこの本を大切にしたいのは、そういう人に共感できることが救いになるからだと思う。木地雅映子への共感が私の心を癒したように。

当時の私は、杉子に自分を投影していたけれど、今の自分は音楽教師の多恵子になりたいと願っている。自分の中の困っている子供は癒されつつあって、きっと次の段階に行けるようになったんだな。

杉子のような子供と友達になれる大人になりたい。